吉良知彦PROFILE
●1959年12月6日・山梨県生まれ・名古屋育ち
●ギター、ベース、キーボード、ブズーキ、様々な打楽器他、多数の楽器をあやつる。
●幼少の頃より父の民族音楽レコード・コレクションを聴いて育つ。趣味は昆虫採集。 自然をこよなく愛し、農業にいそしむ。
●1985年、ZABADAK (ザバダック) 結成。様々な変遷を遂げ、1994年以降は吉良知彦のソロ・ユニットとなる。
●ZABADAKの活動と並行して、デビュー前からCM、映画、演劇、ビデオ等数多くの映像作品に音楽を提供。
WHAT IS ZABADAK?
85年、当時24歳だった吉良は、4年間つづけたハコバン(死語だなあ)に消耗しきって、音楽に対する愛情も熱意も失いかけていた。「もういいやあ、ギターも歌もどうでもいいやあ」とウミウシ状態になっていた吉良に、古い友人が「これ、聞いてみ。」と、渡してくれたのがKATE BUSHの「DREAMING」。

なげやりな気分で聞き初めたのに針が最後の溝を刻んだ時には、自分が投げられたやりになったような気分だった。分かりにくいでしょうが、そうだったのです。翌日バンドに辞表を出し(出さんなあ、普通)、貸スタジオにこもり、数週間で作ったテープを、同じような仕事をして、同じように煮つまっていた上野洋子に聞かせると、これがもうバッチリだったのである。なにがどうバッチリなのかよく分からないが、まあバンドなんてえものは、そんなふうにして出来上がってしまうモノなんじゃあございませんでしょうか? コンテストにでたり、CMやったりするうちにデビューが決まり、もう一人のメンバー松田克志を迎え、レコーディングもトトトーンと終り、さあ出そう、さあ売ろう、ところが…、無かった。

何が無かった?なまえが無かった。そう、バンドの名前がまだ決まっていなかったのである。自分たちの音楽に何かを見つけた三人はもう有頂天で、それに呼び名を付けることには、とんと頭が回らなかったようである。今日じゅうにできなきゃデビューも見送り、というところまで追い込まれて、さすがにあせった三人はいろいろ言うのだけれど、それぞれとびきりのワガママが集っておるので、いかんせんまとまらない。時間はせまる、決まらない。いやあな空気が流れる。見かねたマネージャーが提案した。「ここに(そこはレコーディングスタジオであった)何十枚かのLP盤がある(あったのである)。せえので選んだその一枚のその曲名を汝らのバンド名とするがよかろう。」疲れきった三人に異存のあろうはずもなく、運命は定められた。ここで選ばれたのがイーグルスのレコードであれば我々はホテルカリフォルニアと名乗ったであろうし、キャンディーズが選ばれていたなら当然、ほほえみがえし、ということになったであろう。しかしその一枚は、デイブ・ディー・グループ。「なに、それ?」だの「よくわかんなーい。」だのワカゾウどものさえずりをよそに、とにもかくにも三人のバンドは、DAVE DEE GROUP BESTに入っていた曲からZABADAKの名を与えられたのである。めでたい事である。
HISTORY
●1986年

吉良知彦を中心に上野洋子、松田克志の3人組で、東芝EMIより「ZABADAK-I」でデビュー。都内ライブハウスで精力的にライヴ活動を行う傍ら、CM・映画音楽・ビデオ音楽等も手掛ける。

●1987年

「銀の三角」(ミニアルバム)「Welcome to Zabadak」(フルアルバム)をリリース。松田脱退。

●1988年

渋谷Egg-manを始め、精力的にライヴ活動を行なう。

●1989年

アルファムーン(現イーストウエストジャパン)移籍。アイルランドでのトラックダウンにより、ザバダックにとってエポックメーキングな作品となった4thアルバム「飛行夢」リリース。CMも数多く手掛け、2人併せるとこの1年で60本を越える。

●1990年

「遠い音楽」リリース。5大都市ツアーを行なう。吉良の書く叙情的で美しいメロディ、緻密なサウンド構築、そして上野の透明感溢れる歌声は多くの人を惹きつけ、一般にも徐々に広く浸透していった。

●1991年

初のライヴアルバム「live」CD,LD,ビデオ同時発売(渋谷シアターコクーンにて収録)。
「私は羊」リリース。発売記念ツアーはホールクラスでのコンサートを行ない、動員数も伸び続ける。

●1992年

オフィシャルファンクラブ発足。コンサート会場で自主制作アルバム「十二月の午後河原で僕は夏の風景を思い出していた。」発売。観客数1,200人に対し、1,000枚という恐るべき売り上げを記録。

●1993年

通算8枚目にあたるアルバム「桜」をリリース。東京公演は中野サンプラザで行ない、チケットは完売。
ベストアルバム「Decade」をリリース。日比谷野外音楽堂にて「のれん分け」コンサート。観客は3,000人を超えた。このステージを最後に上野洋子、脱退。8年余りのコンビを解消し、それぞれの新たな道を踏み出すことになった。

●1994年

吉良知彦は意欲的に新曲制作に取り組み、オリジナルアルバムとしては1年9ヶ月ぶりに、吉良知彦のソロユニットとなった新生ザバダックの「音」をリリース(biosphere recordsより)。ファンの間に"上野洋子なきザバダック"に対する不安の声もないではなかったが、吉良の並外れた音楽への情熱があくまで純粋に結晶したこの作品は、インディーズにも関わらずリリース直後から大きな反響を呼び、新しいファン層の拡大につながった。東名阪ライブハウスツアーでは、ロックなステージを展開。

●1995年

biosphere records初のコンピレーションアルバム「Songs」をプロデュース。(参加アーティスト:原マスミ,QUJILA,新居昭乃,他)
NTT出版より、宮沢賢治の童話の世界を"音"で表現した、トータル・コンセプチュアル・アルバム「賢治の幻燈」を吉良知彦名義でリリース。独自の色に染め上げたこの作品は、吉良ならではのインストあり、ロック色豊かな歌モノあり(もちろんヴォーカルは本人)の、いわゆるイメージアルバムとは趣を異にする、ザバダックの新作とも呼べそうな1枚。

●1996年

ポリスターに移籍。デビューから10年目、通算10枚目にあたる「SOMETHING IN THE AIR」(9月11日)、続けて「光降る朝」(10月14日)をリリース。東名阪CLUB QUATTROにて「ZABADAK IN THE AIR TOUR」を行なう。また、演劇集団キャラメルボックスの音楽を担当し、好評を博した。12月、赤坂BLITZにてクリスマスコンサート。またこの年の9月には、ファンの人気投票によって収録曲を選んだザバダック初の楽譜集「zabadak music score vol.1」も発売された。

●1997年

6月、渋谷ON AIR EASTにて「ZABADAK ACOUSTIC GIG」。8月25日にミニアルバム「Trio」、9月18日にフルアルバム「LIFE」発売。10・11月、名古屋・大阪・東京(2days)・仙台にて「“LiFE”TOUR」。

●1998年

5月、渋谷CLUB QUATTROにて「ZABADAK ACOUSTIC GIG」。演劇集団キャラメルボックス「ケンジ先生」の音楽をプロデュース、ネヴュラ・プロジェクトよりサントラ盤が発売される。9月、ボーカルに高井萌をフィーチャーしたアルバム「はちみつ白書」発売。10月、名古屋・大阪・東京・仙台で「はちみつレポート」ツアー。

●1999年

6月7日吉祥寺スター・パインズ・カフェ、6月8日なかのZERO大ホールにて「ZABADAK ACOUSTIC GIG '99」。新旧の顔ぶれによる新たなバンド編成により、再スタートを切る。7月より、ライブと同じメンバーによるレコーディングを開始。

●2000年

biosphere recordsに復帰。1月20日、ZABADAKミュージックの原点に立ち返った入魂の長編アルバム「IKON」発売。2月12日、なかのZERO大ホールにてアルバム発売記念ライブ「Konzert vom Ikon」を行なう。

●2001年

長年、道を共にしたbiosphere recordsを独立、新事務所Penelope、新レーベルGargoyleを設立。
3月29日zepp東京、6月11日スイートベイジル(ZABAKARAQUJILA)にてLIVEを行う。
11月1日オリジナルアルバム「COLORS」、24日キャラメルボックス公演サウンドトラック「ブリザード・ミュージック」を連続リリース。東名阪ツアーを展開。「ブリザード・ミュージック」は渋谷TOWER RECORDSのメジャー・インディーズ混合チャートで9位(邦楽)を記録。今後の活動への大きな一歩を記した。

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